視聴方法
U-NEXT、Netflix、TSUTAYA DISCAS、music.jpで取り扱いあり(2026年10月時点)。見放題・レンタルの区分や最新状況は各サービスで要確認。
あらすじ
人里離れた一軒家で、詩人の夫と静かに暮らす女性。夫の作品の完成を待ちながら、傷んだ家を丹念に修繕する毎日だ。ある夜、見知らぬ男が訪ねてきたことをきっかけに、次々と不審な来客が増え始め、穏やかだった日常が少しずつ壊れていく。歓迎する夫と、拒絶感を拭えない妻。ふたりの間に生じる亀裂は、やがて制御不能な混沌へと雪崩れ込んでいく。
見どころ
序盤から滲む、じわじわとした不気味さ
物語の前半は、音楽を極力排した音響設計のもと、カメラがジェニファー・ローレンス演じる妻の視点に徹底して密着する。来客の奇妙な言動、夫の無防備な歓待、そして家そのものが発する違和感。不条理が静かに積み重なっていく構造は、見る者に「何かがおかしい」という確信を持たせながらも、その正体を最後まで明かさない。
多層的な寓意と解釈の余地
聖書の世界観、創造主と母なる大地の関係性、芸術家の名声と搾取。この映画は特定の「正解」を提示しない。アロノフスキー自身も「それをほぐそうとすると崩れてしまう」「心理的な狂騒だ、過剰に説明すべきではない」とコメントしており※1、捉え方の数だけ映画が存在するような構造になっている。
ラストが残すもの——解釈はネタバレより先にある
後半にかけて映画は急激に崩壊のスピードを上げ、スクリーンの中の秩序が次々と瓦解していく。その圧倒的な物量と映像の密度は、物語の理解を超えたところで身体に響いてくる。善悪や倫理の判断が追いつかなくなる感覚、それ自体が本作の体験の核心だと言っていい。結末を知る前と知った後で、見え方がまったく変わる映画でもある。何が起きたかよりも、なぜそうなったかを問いかけ続けるラストの余韻こそが、この映画の本当の意味だと思う。
制作背景
脚本は、アロノフスキーが「5日間の白昼夢」と呼ぶ短期間で書き上げた。ジェニファー・ローレンスが主演として決まった時点でスタジオへの企画通過も確定し、その後ブルックリンの倉庫での3ヶ月にわたる秘密リハーサルへと突入した。
アロノフスキーと撮影監督マシュー・リバティークは、主観性をより強調するためにスーパー16mmフィルムとクローズアップ・肩越しショット・POVショットに限定した構図を採用した。リハーサルではブルックリンの倉庫の床に家の設計図を原寸で描き、「360度どの方向にも動けるよう全カットを組み立てた」とリバティーク自身が語っている。リハーサル全体をカメラに収め、完全版に近い形で編集した映像を制作チームに見せることで、カメラの動線と配置を事前に徹底的に検証した。※2
本編の撮影は2016年6月中旬にモントリオール近郊でスタートし、同年8月末に終了。ロケに適した建物が見つからなかったため、制作チームはモントリオール郊外の土地に家の一階部分をゼロから建造し、夜間シーン用にはスタジオ内に3階建て相当のセットを別途建設した。※3
キャスト面では、2016年1月にハビエル・バルデムの出演交渉が開始し、4月にはドーナル・グリーソン、ミシェル・ファイファー、エド・ハリス、ブライアン・グリーソンが加わった。※4ローレンスはリハーサル中は比較的淡々としており、アロノフスキー自身も「撮影が始まって彼女が現れるまで、キャラクターの人物像はつかめなかった」と述べている。※4
音楽面では、アイスランドの作曲家ヨハン・ヨハンソンが参加することで話題を呼んだ。デニス・ヴィルヌーヴ作品での革新的なサウンドスケープがアロノフスキー作品との親和性を感じさせたが、最終的には両者の探求の結果としてスコアを丸ごと除去し、より表現豊かなサウンドデザインに全振りするという判断に至った。完成した作品はきしむ床板、心拍音、環境音といった音響設計によって、息苦しい緊張感を生み出している。※5なお、アロノフスキーの常連作曲家クリント・マンセルが参加しなかったのも本作が初めてのことだった。
第74回ヴェネツィア国際映画祭のコンペティション部門に金獅子賞候補として出品され、2017年9月5日にプレミア上映された。会場では絶賛とブーイングが入り混じる反応が巻き起こった。日本では配給元の東和ピクチャーズが、米パラマウント・ピクチャーズの意向を理由に公開中止を決定。2018年1月の劇場公開を予定していたが、結局ビデオスルーとなった。※6
感想
観始めてしばらく、ラース・フォン・トリアーの映画を見ているのだと半ば本気で思っていました。映像の質感、不条理な展開のリズム、主人公の女性が追い詰められていく構造。そういう要素が重なって、頭の中で別の監督名が出てきた。それがアロノフスキーだと意識し直したとき、なるほどこのぶっ飛び具合はこの人の仕事だなと、妙に納得した。
序盤から中盤にかけての不気味さは、『ファニーゲーム』(1997年)を思い出させる種類のものだった。来客がひとり増え、またひとり増え、家の秩序が少しずつ崩れていく。何がおかしいのかは分かる。でも何がどうおかしいのかが言語化できない。その言語化できなさが、不安をじわじわと育てていく。
終盤にさしかかったあたりで、別の作品の映像が頭の中に浮かんできた。今敏監督の『千年女優』(2001年)だった。歴史の一幕や世界の縮図を短い時間に圧縮するような表現の手触り、あの感じとどこか重なった。考えてみれば、アロノフスキーは今敏の熱烈なファンとして知られている。影響がここにも出ているのだと気づいてから、見方が少し変わった。
この映画の解釈は一本ではないと思う。作家の妄想の世界として見ることもできるし、家の精霊あるいは呪いの話として読むこともできる。でも、完全にキリスト誕生を表現しているとして見たとき、この映画の危うさは一段と明確になる。創造主と母なる存在の関係性を、ここまで暴力的に、ここまで赤裸々に映像化すると、こういうことになるのか。批判が集まるのも無理はないとは思いつつ、それでもこれは評価に値する映画だと感じた。
キリスト教の教えを極端に、文字通り極端に表現したとき、こんなにも暴力的な映像が生まれる。そのことに対する驚きというか、ある種の発見のような感覚が残っている。聖書的な構造を知っていれば知っているほど、映像の各所に刺さってくるものが増えるはずで、逆に知らなくても、映像が持つカオスのエネルギーだけで圧倒されることはできる映画です。
結局のところ、内容を完全に消化できたかと問われると正直難しい。「これは何だったのか」という問いが残ったまま終わった。でもそれが欠点には感じなかった。分からなさそのものを体験として受け取れる映画というのが確かにあって、これはその側にある。映像と不条理な世界観が積み重なって生み出す感覚、それ自体を楽しむことができたから。
内容はいったん置いておいて、徐々にカオスになっていく映像だけでも見る価値はある。観終わったあとに何かを言語化しようとして、うまくいかなくて、それでもしばらくその映画のことを考えている。そういう体験ができる映画は、そう多くない。
他の人の見方
映画.comのユーザー評価では118件が集まり平均2.8点(5点満点)と厳しめの数字が並ぶ。「胸糞悪い」「カオス」と拒絶反応を示す声が目立つ一方、聖書をベースにした寓話として肯定的に評価する声もあり、評価は鋭く二分されている※7。
「創世記の寓意になった瞬間から一気に惹き込まれた」「この世の絶望や不条理を排除せずに描いた」という肯定的な声もあり、専門映画ブログ「チェ・ブンブンのティーマ」は2017年の新作洋画ベスト10位に選ぶほどの高評価を示している※8。
批評家と一般観客で評価の乖離が大きく、マーティン・スコセッシが本作を擁護したことも話題になった。第74回ヴェネツィア国際映画祭では金獅子賞にノミネートされた一方で、第38回ゴールデン・ラズベリー賞では監督・主演・助演の3部門にノミネートされるという異例の状況も生まれている※9。
こんな人に
・物語の「正解」を求めず、複数の解釈を楽しめる人
・『ブラック・スワン』などアロノフスキーの過激な作家性が好きな人
・キリスト教的な寓意や聖書の世界観に興味がある人
・『ファニーゲーム』やラース・フォン・トリアー作品のような不条理ホラーが肌に合う人
・ホラーやサスペンスをほとんど見ない人でも、「映画体験として何か強烈なものを一本見てみたい」という気持ちがあれば、入口としてあり得る一本
出典
- ※1 IndieWire
- ※2 Variety
- ※3 Kodak
- ※4 Movies Fandom
- ※5 IndieWire
- ※6 CDJournal
- ※7 映画.com
- ※8 チェ・ブンブンのティーマ
- ※9 CinemAndrake




