視聴方法
Prime Video、Hulu、TSUTAYA DISCASほか複数のサービスで取り扱いあり(2026年7月時点)。見放題・レンタルの区分や最新状況は各サービスで要確認。
あらすじ
広島で暮らす小学5年生のあみ子は、少し風変わりな女の子。優しい父、一緒に登下校してくれる兄、書道教室を開く母、憧れの同級生・のり君——たくさんの人に見守られながら元気いっぱいに過ごしていた。誕生日にもらった電池切れのトランシーバーに話しかけ、「応答せよ、応答せよ。こちらあみ子」と呼びかけるその姿は、滑稽でどこか愛おしい。だが彼女のあまりに純粋で素直な行動は、周囲の人たちを否応なく変えていく。家族の状況が変わるにつれて、あみ子と周囲との関係もじわじわと複雑になっていく。悪意のない場所から生まれる軋みを、子どもの視点で静かに、そして鋭く映し出す104分。
見どころ
あみ子という存在の、揺るぎない磁力
応募総数330名のオーディションの中から見出された新星・大沢一菜は、演技未経験ながら圧倒的な存在感で”あみ子の見ている世界”を体現した。監督から与えられた演出指示は「芝居をしないように」のただ一言。純粋で自分の欲のままに動き、うるさい——でもどこか寂しい。その両極が一人の小さな体の中に宿っていて、目が離せなくなる。
子どもの視点から見る「死」の質感
あみ子にとっての死は、大人が扱うそれとまるで違う輪郭を持っている。得体の知れない何かとして怖く、しかし同時にユーモアを帯びていて、ときに共存の対象にもなる。その独特の死生観が映像に滲み出す瞬間に、この映画の芯がある。森井監督は「あみ子が社会や世間の隅に追いやられていく構図を描いているつもりはない」と語る。あみ子の視点で世界を切り取るとき、死もまた単なる不幸の記号ではなく、生と地続きの何かとして画面に現れる。
ラストが残すもの——ネタバレなしで読み解く余韻
この映画のラストシーンは、解釈を観客に委ねる形で静かに閉じる。あみ子は何かを「わかった」のか、それとも何もわかっていないまま先へ進むのか——そのどちらとも取れる終わり方が、鑑賞後に長く尾を引く。核心は伏せたまま言うならば、ラストに至るまでに積み上げられた「あみ子の世界の手触り」がすべて収束する瞬間があり、それが余韻の正体になっている。「あみ子はちょっと風変わりな女の子。優しいお父さん……たくさんの人に見守られながら元気いっぱいに過ごしていた」という出発点から、ラストにかけてどれだけ遠くまで来たかを感じるとき、この104分の意味が腑に落ちる。
昭和の原風景と、身体に響く自然音
オール広島ロケで映画化されており、撮影地は広島県呉市。令和を舞台にしながら、そこに映るのは昭和的な原風景だ。虫が畳の上でばたつく音、風の抜ける音——監督が「映画では映像より音のほうが大事」と公言するだけあって、音の手触りが直接的に懐かしい。青葉市子(音楽家)による劇伴が、その空気をさらに深く染める。
制作背景
原作と映画化の経緯
原作は今村夏子のデビュー小説。2010年、第26回太宰治賞を受賞した短編「あたらしい娘」が、2011年1月に筑摩書房から出版されるのに際し「こちらあみ子」と改題された。単行本『こちらあみ子』は新作中編「ピクニック」を併録しており、同書は2011年、第24回三島由紀夫賞を受賞している。2014年6月、ちくま文庫にて文庫化された際、さらに新作「チズさん」が併録されている。
森井勇佑監督は本作が長編デビュー作。日本映画学校映像学科(現:日本映画大学)を卒業後、同校の講師であった長崎俊一監督の『西の魔女が死んだ』(2008年)で演出部として映画業界に入り、その後、大森立嗣など日本映画界を代表する監督たちの作品で助監督を務め、経験を積んだ。なお主な助監督参加作品には『まほろ駅前狂騒曲』『セトウツミ』『タロウのバカ』(大森立嗣監督)、『愛の渦』(三浦大輔監督)などがある。
映画化にあたって原作者・今村夏子とは対面せずメールのみでやり取りを行い、脚本段階で追加したオリジナルシーン(おばけのシーン等)についても「これで進めてください」と承認を得た。監督は「プロットはあまりあてになりません。小説を映画にする上で『こういう感じにします』という、宣言みたいなものだと思います」と述べており、完成後には今村から「すごく素敵な感想」が届いたという。※1
映像化の動機について、森井監督は「あみ子の視点で見た世界を映像化したかった」「完全に子どもの視点で描いた映画はあまりないような気がして」と明かしている。また本作を「生きものみたいにしたかった。見るたびにアメーバみたいにかたちを変えて、印象が変化する作品に」と語っており、鑑賞者ごとに異なる像を結ぶことを最初から意図していたことがわかる。※2
キャスティング——330人の中から選んだ理由
あみ子を演じた大沢一菜は、330人のオーディションから選ばれた(当時11歳)。対面したとき、森井監督の頭の中では「あみ子に大沢一菜を当てはめる」よりも先に「この子を主役に映画を撮れたらどれだけ面白いだろう」という考えが走っていた。演出方針は「芝居をしないように」のみ。監督は大沢を「先輩みたいな気がして、撮影しているときもずっとリスペクトしていた」と表現している。※2
父役で井浦新が、母役で尾野真千子が出演している。撮影前には井浦新と大沢一菜がスタッフ滞在の一軒家で食事をともにし、撮影前から自然な関係性が構築されている。※3
青葉市子の音楽——「持ち上げない」劇伴の哲学
劇伴を担当した青葉市子は、監督が広島でロケハン中にApple Musicで偶然発見し「青葉さんの音楽がこの映画のBGMのような感じだった」と依頼した。監督は「誰かの気持ち、あみ子やのりくん、お母さんの気持ちを持ち上げるような音楽はいらない」と方針を伝え、青葉は「学校から帰って来たあみ子が椅子に逆さまになって寝そべっているシーン」を基調テーマに制作。さらに青葉は原作にも映画にも登場しない「亡くなったあみ子の母親」の視点から音楽を作ることを提案し、監督は「自分がこれまで衝動的にやっていたことがすべてつながった気がしました」と応じた。編集段階でも青葉の一言で約10分が削られ、「謎のリズムが生まれた」と監督は評価している。※2
第77回毎日映画コンクールでは、青葉市子が「こちらあみ子」で音楽賞を受賞している。
撮影・公開・受賞歴
撮影地は広島県呉市。撮影期間は21日間で完成している。公開は2022年7月8日、新宿武蔵野館ほか全国順次。
受賞歴は以下の通り。
- 2022年度新藤兼人賞 金賞(森井勇佑監督)
- 第32回日本映画プロフェッショナル大賞 作品賞・新人監督賞(森井勇佑)
- 第36回高崎映画祭 最優秀新人俳優賞(大沢一菜)・新進監督グランプリ※4
- 第77回毎日映画コンクール 音楽賞(青葉市子)
- ロングランヒットを記録し、海外映画祭への出品も果たしている。
感想
あみ子を好きになった。それははっきりしている。
うるさくて、純粋で、自分の欲のままに動く。傍にいたら少し面倒かもしれないとも思う。でも画面の中のあみ子は、ずっと見ていたい存在だった。それは彼女がどこか寂しい気配を纏っているからで、その寂しさは自覚されていない——本人は気づいていないのに、こちらにはじわじわと伝わってくる。その非対称が、観ている間ずっと胸にひっかかっていました。
坊主頭の子どもとのやりとりが特に好きだった。彼の自然体には、「演技」という言葉が似合わない。意識的に何かを演じている痕跡がなく、それでいてあみ子の隣に立つとき、2人の間に確かな関係性が生まれている。あみ子が本心を伝えるとしたら彼にだけ、という感覚は観ていてすぐに納得できた。その無防備な親密さが、この映画の中でいちばん柔らかい部分だと思います。
子どもの視点から見る死が、こんなに怖いものだとは思っていなかった。大人にとっての死は意味を帯びている。悲しみ、喪失、不可逆性——そういう文脈の中に収まっている。でもあみ子にとっての死は、まだ意味のない、得体の知れない何かだ。それが映像に滲み出るとき、説明のつかない恐怖として伝わってくる。一方で、あみ子はその恐怖と共存することができる。怖いものを楽しいものに置き換えて、一緒に暮らしていく。その奇妙な明るさが、余計に怖い。
海のシーンは可愛らしく見えて、観ながら背筋が静かに冷えた。誘われている、という感覚がある。でもあみ子はそこでちゃんと「さよなら」をする。そのさよならの意味を、あみ子がどこまで意識しているかはわからない。わからないまま、でも確かに彼女は何かを感じ取っている。本能的に世界を少しずつ理解し始めている、その瞬間を目撃しているような気持ちになる。
保健室のシーンも忘れがたい。俯いたままの男の子と、1人で何かを喋り続けるあみ子。そこに突然訪れる衝動。会話というより動物的な衝突で、理屈のない生々しさがある。ボコボコになっても気持ちが変わらないあみ子を見ていると、「純粋」という言葉の意味がじわじわと変わっていく気がします。純粋さとは、守るものではなく、向き合うべき力なのかもしれない、と。
この映画を貫くのは、自然音を含む音の設計だと感じた。畳の上で虫がばたつく音の、あの直接的な懐かしさ。令和の作品なのに昭和の原風景を呼び起こしてくる質感。監督が「映画では映像より音のほうが大事」と言い切るのは大げさではなく、実際に音が画面の手触りを決定している。青葉市子の劇伴はその空気を乱さずに寄り添い、どこか「持ち上げない」距離感を保っていた。
あみ子の生きづらさは、あくまで外側から見たものだとも思う。本人は生きづらさを感じていないかもしれない。でも心の奥底にある、まだ言語化できない部分では、不安や恐怖が確かにある。それが物語の中で霊という形をとって現れているとしたら、あみ子の世界の解像度が少し変わって見えてくる。
最後に近いところで、あみ子が自分を客観的に見る瞬間があった。それはほんの少し、大人になった証拠のようにも映る。でも正直、その成長を素直に喜べない。大人になることで失っていくものが、この映画にはたくさん映っているから。あのうるささも、あの純粋さも、あの無防備さも——大事なものはそのままであってほしいと、願ってしまう。
他の人の見方
「あみ子を見ていると、いつの間にか自分が問われている気がする」という声がある。純粋さへの愛着と同時に、それを「迷惑」と感じた経験が引き出されるという鑑賞体験は、複数の感想で共通して語られている。
また「子どもの映画なのに、大人のほうが怖くなる」との評価がある。あみ子そのものよりも、あみ子の純粋さによって変えられていく周囲の大人たちを映す視点が、むしろ大人の観客に刺さるという指摘だ。
大沢一菜の演技については、「演技と呼ぶべきか迷う」という声が多い。意図的な「演じ方」が見えないのに存在感が強烈で、監督の演出方針「芝居をしないように」が画面に正直に出ていると評価されている。※5
よくある質問
原作小説はどんな作品ですか?文庫に収録された「ピクニック」「チズさん」とは?
原作は今村夏子のデビュー作で、第26回太宰治賞受賞の短編「あたらしい娘」を改題したもの。単行本『こちらあみ子』には中編「ピクニック」が、ちくま文庫版にはさらに「チズさん」が収録されている。「ピクニック」「チズさん」はいずれもあみ子とは別の物語だが、同じ今村夏子の作家的視点——ズレた純粋さが周囲を変容させていく世界観——が貫かれている。映画を観た後に読むと、また違う層が見えてくる。
ラストシーンにはどんな意味がありますか?(ネタバレなし)
ラストシーンは、観る人によって解釈が大きく分かれる。あみ子がある種の「別れ」あるいは「自覚」に至るように見える瞬間があるが、それが成長なのか、喪失なのか、あるいはあみ子には何も変わっていないのかは明かされない。森井監督が「見るたびにアメーバみたいにかたちを変えて、印象が変化する作品にしたかった」と語る通り、ラストもまた正解のない問いとして手渡される。核心よりも、その「わからなさ」ごと持ち帰ることにこそ、この映画の余韻がある。
森井勇佑監督の他の作品は?
本作が森井勇佑の長編監督デビュー作。その後、綾瀬はるか主演の映画『ルート29』(2024年)を手がけている。また、漫画原作の映画『杉森くんを殺すには』の監督も務めることが発表されており、脚本を吉田玲子が担当することも明らかになっている。
本作の受賞歴を教えてください。
2022年度新藤兼人賞金賞を受賞しており、これは新人監督を対象とした国内映画賞の中でも権威ある賞のひとつ。第32回日本映画プロフェッショナル大賞では作品賞と新人監督賞をダブル受賞した。また第36回高崎映画祭では大沢一菜が最優秀新人俳優賞を、第77回毎日映画コンクールでは青葉市子が音楽賞を受賞している。
今村夏子とはどんな作家ですか?
今村夏子は『むらさきのスカートの女』で芥川賞を受賞した作家で、デビュー作『こちらあみ子』の時点で太宰治賞と三島由紀夫賞をW受賞している。広島市出身。日常のなかの微細なズレや、「普通」の輪郭が静かに崩れていく様を独特の文体で描くことを得意とし、現代日本文学の中でも特異な存在感を持つ。映画化にあたっては、監督とメールのみでやり取りしながら、完成した作品を高く評価したとされている。
こんな人に
・「生きづらさ」を外側から描くのではなく、内側から体験させてくれる映画を探している人
・子どもの視点で語られる死や喪失に、息をのんだことがある人
・純粋さが持つ暴力性と、その美しさを同時に感じたい人
・今村夏子の原作小説が好きで、映像化をどう受け取るか確かめたい人
・邦画を普段あまり観ないけれど、静かに心に残る作品を探している人
関連商品
出典
- ※1 CINEMORE
- ※2 CINRA
- ※3 Real Sound
- ※4 高崎新聞
- ※5 映画.com





