視聴方法
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あらすじ
1990年代、急速な発展を遂げる国際色豊かな台北。バブリーな店が立ち並び、外国人が流入し、さまざまなものが混じり合う街の片隅で、若者たちが共同生活を送っている。彼らは何でも自分のものにできると信じ、女性をも共有しながら自由を謳歌している。しかしその幻想は、混沌とした社会のなかで少しずつ崩れ始める。その渦のなかで、ひとつの純粋な愛の形が問いとして静かに浮かび上がる。
見どころ
喜劇と悲劇が同居する独特の温度感
エドワード・ヤンが得意とする「低温でシニカル、意地悪で乾いた笑い」※1が全編を貫いている。コミカルな雰囲気のなかに突然死の気配が滲み、観ている側は笑いと不安のあいだに置かれ続ける。この喜劇と悲劇が表裏一体になった質感こそ、本作の中心にある感触だ。
急成長する台北という「場」の力
バブル景気と外国資本の流入によって変貌する1990年代の台北が、物語の背景というより登場人物そのものとして機能している。街の煌びやかさと猥雑さが、若者たちの欲望と幻想を映す鏡になっている。発展の只中で失われていくものを、風景と会話劇のなかに刻みつける演出が際立っている。
ラストが問いかけるもの——答えのない余韻について
欲望と損得が渦巻く世界で、純粋な愛が成立し得るかどうか。エドワード・ヤンはその問いを台詞で説明するのではなく、街の喧騒だけが残るエンドロールに委ねる。答えは与えられない。けれどもその静けさのなかに、監督の希望と哀しみが同時に溶けている。
制作背景
本作は、エドワード・ヤン(楊徳昌)が1994年の『エドワード・ヤンの恋愛時代』に続いて手がけた〈新台北3部作〉の第2作にあたる。前作と同様に90年代の台北を舞台にしながら、コメディタッチの前作と異なり、本作では喜劇と悲劇が表裏一体となった作風が採用された。
キャスティングには、フランス女優ヴィルジニー・ルドワイヤンを主演の一人に迎え、『牯嶺街少年殺人事件』に続いてクー・ユールン、チャン・チェン、ワン・チーザンを起用した群像劇の青春映画となっている。なお、タン・ツォンシェンは国立芸術学院戯劇科の最終学年にエドワード・ヤンの映画クラスに在籍しており、その縁がキャスティングに繋がった。
脚本はヤン自身が執筆し、英語部分の台詞処理にはウー・ニェンツェンとアンドリュー・ツァオが加わっている。撮影はリー・イーシュー(李以須)とリー・ロンユー(李龍禹)の二名が担当し、編集はチェン・ポーウェン(陳博文)が手がけた。本作の言語は台湾国語・閩南語・粤語・英語・フランス語と多岐にわたり、国際色豊かな台北の雑多な空気がそのまま音のレイヤーに反映されている。
第46回ベルリン国際映画祭アルフレッド・バウアー名誉賞、第33回台湾金馬奨助演男優賞(ワン・チーザン)、第9回シンガポール国際映画祭監督賞、第18回ナント三大陸映画祭ナント市賞を受賞。国際的な評価を得た一方、劇場公開後はソフトが廃盤となり、配信でも長らく見ることのできない時期が続いていた。
4Kレストアへの取り組みは2019年にヤンの遺族とTFAI(台湾国家電影視聴文化センター)が協議を開始したことに端を発しており、その修復作業を経て、2025年4月18日より日本での劇場リバイバル公開が実現した。
公開を機に行われたトークイベントでは、映画評論家・森直人が「ヤンの場合は自らそのスタイルを捨て去っていく傾向があり、一つ一つの作品の作風がまるで違う」と指摘。俳優・池松壮亮は「20年後、50年後に観ても傑作だと思います」と語っている※2。
エドワード・ヤンをもっとも敬愛する映画作家の一人に挙げる濱口竜介は、今回の上映に際して「『牯嶺街少年殺人事件』の少年たちが成長し、『恐怖分子』の鋭利さと『恋愛時代』の軽みを併せ持つ映画をつくりあげた」と評し、本作を「危険なる傑作」と呼んだ。※3
感想
エドワード・ヤンの映画はどれも、どこかで笑わせながら死の匂いを漂わせる。コミカルな場面のはずなのに、その空気の端っこにひやりとしたものが混ざっている。本作でもその感触は変わらなかった。むしろより鮮明だったかもしれません。
舞台は1990年代の台北。バブル景気と外国資本の流入が重なり、街全体がざわついている。その片隅で、若者たちが共同生活を送っている。彼らは何でも自分のものにできると信じていて、女性すら共有の対象として扱う。自由を謳歌しているように見えるが、それは自由ではなく幻想に近い。彼らには彼らなりのルールがあり、その枠組みのなかで動いているからこそ、逆にその枠組みに縛られ、苦しんでいる。
急速な発展の裏で、確かに何かが失われていく。具体的なものだけでなく、抽象的なもの——信頼の形、誠実さ、愛と呼べるものの輪郭——が少しずつすり減っていく感覚があった。その意味で彼らはある種の犠牲者であり、街の成長が生み出した副産物でもある。エドワード・ヤンはそのことを嘆くでも告発するでもなく、ただ静かに見つめている。そのフラットな視線が、かえって重く刺さります。
ただ、一点正直に言っておかなければならないことがある。この時代の台北の空気を体感した人にしかわからないものが、この映画には確実にある。急速な発展、バブルの熱気と不安、国際化の混乱——その渦中を生きた人の記憶と、映像のなかの台北は、直接共鳴するはずです。日本でスクリーンに向かっていたとき、そこに自分が届ききれない領域があると感じた。エドワード・ヤンが表現しようとしたものを、どこまで汲み取れているか。正直なところ、わからない。
それでも心に引っかかるものがある。それは愛の変容という問いだ。表面上の愛、偽りの愛、臨界点を超えて愛憎になるもの、死を生み出してしまうもの——本作はそういった愛の諸相をひとつひとつ提示しながら、最後に純粋で美しい愛の可能性を、ルンルンとマルトのふたりの形を通じて問いかける。それは答えではなく、希望のような何かだ。
しかしその希望にすら、もやっとしたものが孕んでいる。これがこの映画のいちばん誠実な部分だと思います。街の喧騒だけが残るエンドロール。街はこれからも生き続け、発展していく。でもあの2人はどこへ行ったのか。見えなくなった彼らの行方が、観終わったあとも静かに漂ってくる。
形式的な特徴についても少し書いておきたい。とにかくよく喋る。会話劇としての密度が非常に高く、台詞の量と速度でキャラクターが動いていく。カメラは長回しを多用し、位置を固定したままパンで空間を切り取る場面が印象的だった。音楽はほとんど記憶に残っていない。街の音と人の声だけで、映画が成立している。
濱口竜介が本作を「危険なる傑作」と呼んだ、その「危険な」という形容が、ずっと頭に残っています。危険というのは、おそらく単純に感動させてくれる映画ではないという意味だ。観た側が何かを問い返されて、その問いに自分で答えなければならない。そういう映画です。
自分の存在や生き方について考えさせられる、とメモに書いた。それはこの映画が人に何かを「与える」のではなく、何かを「引き出す」構造になっているからだと思う。余韻の心地よさは、その引き出しが静かに続くからなのかもしれません。
他の人の見方
映画評論家・森直人は「ヤンの場合は自らそのスタイルを捨て去っていく傾向があり、一つ一つの作品の作風がまるで違う」という評価がある※2。
俳優・池松壮亮からは「『カップルズ』も監督の高い視点で作られているからこそ、どんな時代でも通じる普遍性を獲得している。20年後、50年後に観ても傑作だと思います」という声がある※2。
映画.comでは「約30年前に作られた映画とは思えないほど、本作で描かれる内容やテーマはより現代の社会性とリンクし、作品の鮮度が増している」という評価がある。※4
文春オンラインでは、本作を「低温でシニカル、意地悪で乾いた笑い」を持つコメディとして読み解く視点が紹介されており、爆笑を誘う娯楽作とは異なるエドワード・ヤン独自のユーモアの質感が指摘されている※1。
前作『エドワード・ヤンの恋愛時代』の続篇として、グローバル化した台北を舞台にした目眩くコメディという系譜に位置しながら、本作はより暗く辛辣な縁を帯びているという見方が海外の批評でも一致している。
こんな人に
・エドワード・ヤンの他作品(『牯嶺街少年殺人事件』『ヤンヤン 夏の想い出』等)が好きな人
・台湾ニューウェーブ映画や、アジア映画の会話劇・長回し演出に関心がある人
・欲望と愛の変容、都市の発展と喪失といったテーマに引っかかりを感じる人
・「わかりやすい答え」を与えない映画、余韻の深い作品を探している人
・派手な展開は少ないが、会話と空気感だけで物語が動く映画を初めて試してみたい人
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出典
- ※1 文春オンライン
- ※2 スクリーン・オンライン
- ※3 映画.com
- ※4 映画.com


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