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『こちらあみ子』考察・感想|純粋さが静かに世界を壊すとき(ネタバレなし)

『こちらあみ子』考察・感想|純粋さが静かに世界を壊す104分(ネタバレなし)

広島で暮らす小学5年生のあみ子が、その純粋さだけで周囲を静かに変えていく映画だ。悪意はない。だからこそ、軋みが止まらない。

※本記事にはアフィリエイトリンクを含みます。


目次

視聴方法

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あらすじ

広島で暮らす小学5年生のあみ子は、少し風変わりな女の子。両親と兄に囲まれ、憧れの同級生・のり君との関わりの中で日々を送っている。純粋で素直な行動は周囲の人たちを否応なく変えていく一方、家族の状況が変わっていくにつれて、あみ子と周囲との関係もじわじわと複雑になっていく。悪意のない場所から生まれる軋みを、子どもの視点で静かに、そして鋭く映し出す104分。

見どころ

この映画が持つ力の核は、あみ子の視点から世界を見ることで、観客自身の感覚が静かに塗り替えられていく体験にある。

あみ子という存在の、揺るぎない磁力

330人の中から選ばれた大沢一菜(当時11歳)が演じるあみ子は、監督から「芝居をしないように」とだけ指示されて画面に立つ。純粋で、自分の欲のままに動き、うるさい。でもどこか寂しい。その両極が一人の小さな体の中に宿っていて、目が離せなくなる。

子どもの視点から見る「死」の質感

あみ子にとっての死は、大人が扱うそれとまるで違う輪郭を持っている。得体の知れない何かとして怖く、しかし同時にユーモアを帯びていて、ときに共存の対象にもなる。その独特の死生観が映像に滲み出す瞬間に、この映画の芯がある。

ラストが残すもの——「さよなら」の意味と余韻

あみ子がラストに向かうにつれて、画面の空気が少しずつ変わっていく。何かを理解し始めているのか、あるいはただ感じ取っているだけなのか。そのどちらとも言い切れない曖昧さが、見終わったあとも頭から離れない。結末を明かすことはしない。ただ、あみ子が最後に選ぶ行動の意味は、観た人ごとに少し違う形をして残るはずだ。

昭和の原風景と、身体に響く自然音

撮影地は広島県呉市。令和を舞台にしながら、そこに映るのは昭和的な原風景だ。虫が畳の上でばたつく音、風の抜ける音。監督が「映画では映像より音のほうが大事」と公言するだけあって、音の手触りが直接的に懐かしい。青葉市子による劇伴が、その空気をさらに深く染める。

制作背景

原作・今村夏子、監督・森井勇佑、音楽・青葉市子という三者の化学反応から生まれた本作は、デビュー長編としては異例の密度で作り込まれている。

原作との出会い、そして映画化へ

原作は今村夏子が2010年に発表したデビュー小説『あたらしい娘』を改題した『こちらあみ子』(ちくま文庫)。第26回太宰治賞と第24回三島由紀夫賞をW受賞した作品だ。なお単行本には中編「ピクニック」が、文庫版にはさらに「チズさん」が収録されており、映画化されたのは表題作のみだが、これらの短編も合わせて今村文学の世界観を形成している。

森井監督は20代後半にこの小説と出会い、映画化を熱望するようになった。助監督として大森立嗣監督の現場で経験を積むかたわら、プロデューサーの近藤貴彦に原作を手渡したことが、監督デビュー実現のきっかけとなった。監督は本作を「めちゃくちゃ好きで、これまででいちばん衝撃を受けた小説」と語っている。※1

映画化にあたって原作者・今村夏子とは対面せずメールのみでやり取りを行い、脚本段階で追加したオリジナルシーン(おばけのシーン等)についても「これで進めてください」と承認を得た。監督は「プロットはあまりあてになりません。小説を映画にする上で『こういう感じにします』という、宣言みたいなものだと思います」とも述べており、完成後には今村から「すごく素敵な感想」が届いた。※1

映画ならではのオリジナル要素

「あみ子の視点で見た世界を映像化したかった」「完全に子どもの視点で描いた映画はあまりないような気がして」と監督は語っている。また本作を「生きものみたいにしたかった。見るたびにアメーバみたいにかたちを変えて、印象が変化する作品に」とも述べており、鑑賞者ごとに異なる像を結ぶことを最初から意図していたことがわかる。※2

原作にないオリジナルシーンとして、音楽室の壁の額から歴代校長や音楽家たちがゾンビとなって現れ、あみ子と行列になって行進するシーンが挙げられる。またオレンジが落ちてこないシーンは脚本になかったが、撮影当日に追加された。小道具にも細部へのこだわりが宿っていて、クッキーの形状はいろいろ探した末に、片面全部がチョコに覆われているものに決まり、あみ子のアクションが今の動きになった。エンドロールでは大沢一菜のクレジットにトランシーバーの絵、森井監督のクレジットにも同じトランシーバーの絵が添えられており、2人がそれでつながっているという意味が込められている。※2

大沢一菜のキャスティング

あみ子を演じた大沢一菜は330人のオーディションから選ばれた(当時11歳)。当初はオーディションに気が進まなかったが、映画の内容を聞いて興味を持ったという。対面したとき、森井監督の頭の中では「あみ子に大沢一菜を当てはめる」よりも先に「この子を主役に映画を撮れたらどれだけ面白いだろう」という考えが走っていた。監督が大沢と対面した際、彼女の目は「どこか遠くを見ていて、まるで僕には見えていないなにかを見ているかのよう」だったと語っている。演出方針は「芝居をしないように」のみ。より正確には、「役を対象化して演じるということをしてほしくなかった。あみ子は直接ものを見て、直接語りかけるから」というのが監督の考えで、「元気に」という言葉とともに伝え続けた。監督は大沢を「先輩みたいな気がして、撮影しているときもずっとリスペクトしていた」と表現している。※2※3

青葉市子の音楽と撮影現場

劇伴を担当した青葉市子は、監督が広島でロケハン中にApple Musicで偶然発見し「青葉さんの音楽がこの映画のBGMのような感じだった」と依頼した。監督は「誰かの気持ち、あみ子やのりくん、お母さんの気持ちを持ち上げるような音楽はいらない」と方針を伝え、青葉は「学校から帰って来たあみ子が椅子に逆さまになって寝そべっているシーン」を基調テーマに制作。さらに青葉は原作にも映画にも登場しない「亡くなったあみ子の母親」の視点から音楽を作ることを提案し、監督は「自分がこれまで衝動的にやっていたことがすべてつながった気がしました」と応じた。編集段階でも青葉の一言で約10分が削られ、「謎のリズムが生まれた」と監督は評価している。※2

撮影中、演出部は監督の意図を汲んで虫を見つけるたびに捕まえるようになり、やがてスタッフ全員がそれに加わるようになった。あみ子の周囲を生き物でざわざわと豊かに描くための、現場全体の自然な連鎖だった。

撮影地は広島県呉市で撮影期間は21日間、天候にも恵まれた。井浦新と大沢一菜は撮影前にスタッフ滞在の一軒家で食事をともにし、自然な関係性が構築されている。※3

受賞歴

本作は、2022年度新藤兼人賞金賞(森井勇佑)、第36回高崎映画祭の新進監督グランプリおよび最優秀新人俳優賞(大沢一菜)、第14回TAMA映画賞最優秀新進監督賞、第77回毎日映画コンクール音楽賞(青葉市子)、第32回日本映画プロフェッショナル大賞 作品賞・新人監督賞を受賞。また、第96回キネマ旬報ベスト・テン日本映画部門で4位、第52回ロッテルダム国際映画祭Bright Future部門への出品も果たした。

感想

あみ子を好きになった。それははっきりしている。

うるさくて、純粋で、自分の欲のままに動く。傍にいたら少し面倒かもしれないとも思う。でも画面の中のあみ子は、ずっと見ていたい存在だった。それは彼女がどこか寂しい気配を纏っているからで、その寂しさは自覚されていない——本人は気づいていないのに、こちらにはじわじわと伝わってくる。その非対称が、観ている間ずっと胸にひっかかっていました。

坊主頭の子どもとのやりとりが特に好きだった。彼の自然体には、「演技」という言葉が似合わない。意識的に何かを演じている痕跡がなく、それでいてあみ子の隣に立つとき、2人の間に確かな関係性が生まれている。あみ子が本心を伝えるとしたら彼にだけ、という感覚は観ていてすぐに納得できた。その無防備な親密さが、この映画の中でいちばん柔らかい部分だと思います。

子どもの視点から見る死が、こんなに怖いものだとは思っていなかった。大人にとっての死は意味を帯びている。悲しみ、喪失、不可逆性——そういう文脈の中に収まっている。でもあみ子にとっての死は、まだ意味のない、得体の知れない何かだ。それが映像に滲み出るとき、説明のつかない恐怖として伝わってくる。一方で、あみ子はその恐怖と共存することができる。怖いものを楽しいものに置き換えて、一緒に暮らしていく。その奇妙な明るさが、余計に怖い。

海のシーンは可愛らしく見えて、観ながら背筋が静かに冷えた。誘われている、という感覚がある。でもあみ子はそこでちゃんと「さよなら」をする。そのさよならの意味を、あみ子がどこまで意識しているかはわからない。わからないまま、でも確かに彼女は何かを感じ取っている。本能的に世界を少しずつ理解し始めている、その瞬間を目撃しているような気持ちになる。

保健室のシーンも忘れがたい。俯いたままの男の子と、1人で何かを喋り続けるあみ子。そこに突然訪れる衝動。会話というより動物的な衝突で、理屈のない生々しさがある。ボコボコになっても気持ちが変わらないあみ子を見ていると、「純粋」という言葉の意味がじわじわと変わっていく気がします。純粋さとは、守るものではなく、向き合うべき力なのかもしれない、と。

この映画を貫くのは、自然音を含む音の設計だと感じた。畳の上で虫がばたつく音の、あの直接的な懐かしさ。令和の作品なのに昭和の原風景を呼び起こしてくる質感。監督が「映画では映像より音のほうが大事」と言い切るのは大げさではなく、実際に音が画面の手触りを決定している。青葉市子の劇伴はその空気を乱さずに寄り添い、どこか「持ち上げない」距離感を保っていた。

あみ子の生きづらさは、あくまで外側から見たものだとも思う。本人は生きづらさを感じていないかもしれない。でも心の奥底にある、まだ言語化できない部分では、不安や恐怖が確かにある。それが物語の中で霊という形をとって現れているとしたら、あみ子の世界の解像度が少し変わって見えてくる。

最後に近いところで、あみ子が自分を客観的に見る瞬間があった。それはほんの少し、大人になった証拠のようにも映る。でも正直、その成長を素直に喜べない。大人になることで失っていくものが、この映画にはたくさん映っているから。あのうるささも、あの純粋さも、あの無防備さも——大事なものはそのままであってほしいと、願ってしまう。

他の人の見方

「あみ子を見ていると、いつの間にか自分が問われている気がする」という声がある。純粋さへの愛着と同時に、それを「迷惑」と感じた経験が引き出されるという鑑賞体験は、複数の感想で共通して語られている。

また「子どもの映画なのに、大人のほうが怖くなる」との評価がある。あみ子そのものよりも、あみ子の純粋さによって変えられていく周囲の大人たちを映す視点が、むしろ大人の観客に刺さるという指摘だ。

大沢一菜の演技については、「演技と呼ぶべきか迷う」という声が多い。意図的な「演じ方」が見えないのに存在感が強烈で、監督の演出方針「芝居をしないように」が画面に正直に出ていると評価されている。(出典:映画.com)

こんな人に

・「生きづらさ」を外側から描くのではなく、内側から体験させてくれる映画を探している人
・子どもの視点で語られる死や喪失に、息をのんだことがある人
・純粋さが持つ暴力性と、その美しさを同時に感じたい人
・今村夏子の原作小説が好きで、映像化をどう受け取るか確かめたい人
・邦画を普段あまり観ないけれど、静かに心に残る作品を探している人

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出典

  1. ※1 CINEMORE
  2. ※2 CINRA
  3. ※3 Real Sound

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