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『何食わぬ顔』考察・感想|演技の裏に本物が宿る、濱口竜介の原点(ネタバレなし)

映画『何食わぬ顔』の場面写真

監督 濱口竜介

主演 松井智

製作年 2003年

上映時間 98分(long version)/43分(short version)

製作国 日本

ジャンル 自主映画・ドラマ


※本記事にはアフィリエイトリンクを含みます。


目次

視聴方法

商業ソフト化(Blu-ray/DVD)および主要VODサービスでの配信は現時点では確認できない。原版は8mmフィルムをDVCAMにデジタイズしたSD素材での上映となるため、劇場での特集上映が実質的な唯一の鑑賞ルートとなっている。「濱口竜介プロスペクティヴ」や「濱口竜介監督特集上映:言葉と乗り物」といった企画上映でたびたび取り上げられているため、関連する映画館・配給の公式情報をこまめに確認しておきたい。

あらすじ

亡くなった先輩の遺した未完の8ミリ映画。友人に言われるままその完成を引き受けることになった野村は、煮え切らない態度で周囲を戸惑わせながら、撮影を進めていく。前半はその制作過程を追い、後半はその「完成された劇中映画」そのものが映し出される——という二部構成。映画を作る者、見る者、そして見ない者、それぞれにとって映画とは何なのか。主人公の内面は多くを語らないまま、周囲の人間関係と入れ子状の映像構造の中に、静かに問いが置かれていく。

見どころ

入れ子構造が仕掛ける記憶の撹乱

映画の中に映画が存在する二重構造。どちらも同じトーンで描かれるため、観終わった後に「あのシーンはどちらの映像だったのか」という混乱が残る。これは偶然ではなく、意図的に仕掛けられた設計だと感じさせる。観客の記憶を揺さぶることで、「映像とは何を写すのか」という問いが浮かび上がってくる。

演技の演技がリアルを引き出す逆説

表の映画と裏の映画。演じることを演じることで、むしろその人物のリアルな何かが滲み出てくる瞬間がある。裏の裏は表、という感覚。劇中映画の中にこそ真実が宿っているように見えるこの逆説は、後年『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞を受賞する濱口竜介が、すでに学生時代から「人間と演技の関係」に深く踏み込んでいたことを示している。本作で濱口は演技経験のない仲間たちを相手に、「こんなことは言わないだろう」というセリフを書かないようにしていたと後に語っており、その制約がかえってリアルな表情を引き出す方法論の萌芽となった※1

男たちの戯れと、ジョン・カサヴェテスの影

本作の冒頭近く、妙に仲のいい男友達がじゃれ合う場面がある。これは、インディペンデント映画の父と呼ばれるジョン・カサヴェテス監督の『ハズバンズ』(1970)を強く想起させる空気感だ。死から物語が動き出す構造も含め、カサヴェテスへの明確なオマージュとして読める。若い監督が誰かに憧れ、影響を受け、それを隠さずに作る——その誠実さも見どころのひとつだ。

制作背景

本作は濱口竜介が東京大学の映画研究会に在籍中、全編8mmフィルムで撮影した自主映画である※2。製作・監督・脚本・編集をすべて濱口本人が担当し、撮影には渡辺淳・濱口竜介・東辻賢治郎が、録音は井上和士、音楽はDavid Nude(デビッド・ヌード)/ROMANが参加している。主演の松井智のほか、岡本英之・遠藤郁子・石井理絵らが出演し、濱口自身もキャストとして登場。「気取った映画青年役」を演じている※3

2バージョンの存在:同じ題名の「short version(約43分)」と「long version(98分)」が存在する。short versionは登場人物たちが撮り上げた劇中映画そのものに相当し、long versionの中ではその完成作品として上映される構成になっている。short version単体でも物語は完結しており、独立した1本の映画として鑑賞可能だ※4

カサヴェテスとの深い縁:濱口はカサヴェテスへの強い傾倒を繰り返し公言している。東京大学文学部美学芸術学研究室に提出した卒業論文のテーマもまさに「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」であり、2000年に『ハズバンズ』を観て「映画をちゃんと撮ろうと思った」と語っている※5。本作にカサヴェテス色が色濃く滲み出ているのは、その意味で必然といえる。

上映フォーマットについて:原版は8mmフィルムをデジタイズしたSD素材。映画研究家の木村建哉は「技術的な諸々の難点を除けば、濱口竜介が既に濱口竜介であることが驚異的だ」と評し、「映画と映画内映画の関係を複雑かつ緻密に構成した脚本」と長版の構造的完成度を指摘している※6

後続作品との連続性:本作での二部構成の実験は、後の濱口作品に繰り返し現れる。『親密さ』(2012)では「演劇制作の過程を描く前半」と「実際の舞台上演を記録した後半」という同型の構造が採用され、さらに『ドライブ・マイ・カー』でも演劇制作のプロセスが物語の核心を成している。制作プロセスとその完成物という二重構造への関心は、この自主映画の時点ですでに芽生えていた※3

キャリアの文脈:濱口は東京大学文学部を卒業後、映画の助監督やテレビ番組のADを経て東京藝術大学大学院映像研究科へ進学。在学中は黒沢清に師事し、2008年の修了制作『PASSION』がサン・セバスティアン国際映画祭や東京フィルメックスで高評価を得て、本格的なキャリアが始動した※7。『何食わぬ顔』はそのさらに前、大学生だった濱口の最初期の試みに位置する作品だ。

批評家の玉田健太はshort versionの分析のなかで、「事物が物語に優先する」「物語の輪郭が常に名付けの一歩手前に留まる」と評し、初期濱口の方法論の萌芽をすでにこの学生作品に読み取っている※4

感想

観終わって、どのシーンが「本編」でどのシーンが「劇中映画」だったのか、正直なところ自信がなくなっていた。それは困惑というより、奇妙な充足感に近かった。

冒頭の男たちがじゃれ合う場面——あれを見た瞬間、『ハズバンズ』だ、と思った。死から始まる展開も含め、カサヴェテスへの愛が画面ににじみ出ている。でも、ただのオマージュで終わっていない。映画を作る者にとっての映画と、見る者にとっての映画、見ない者にとっての映画——そういった問いが、静かに、しかし確かに画面の奥に置かれている。

主人公の心情はほとんど描かれない。何を考えているのか、何を感じているのか、わからないまま物語は進む。でも、周囲の人間への眼差しや、劇中映画の中で「役を演じている彼」を通して、何かが伝わってくる瞬間がある。裏の裏は表、とでも言うか——演技を演じることで、よりリアルなものが映し出される逆説。これは濱口監督が後年まで一貫して追いかけてきたテーマの、最初期の形だと思う。

0から何かを生み出すのはどんな監督にとっても難しい。だからこそ、誰かに憧れ、影響を受け、それを作品に刻み込むことには誠実さがある。若い濱口監督がスクリーンの中でなんともイケイケな雰囲気で映っていて、しかも一番演技が自然に見えた——あれは意外で、少し笑えて、でも不思議と納得もした。

他の人の見方

8ミリフィルムの粗い粒子と退色した青空を背景に浮かび上がる人物のシルエットを評価する声、電車の車内で淡々と辞書を読み上げるシーンの感情表現を「奇跡のような長回し」と称えるレビューなどが、本作を観た人たちの間で繰り返し語られている。映画研究家の木村建哉は「的確な演出とショット割り」「若さと仲間との親密さから来る瑞々しさ」が溢れていると評し、この「幻のバージョン」を再公開する価値を強調した※6

批評家の玉田健太はshort versionの分析で、「事物が物語に優先する」「物語の輪郭が常に名付けの一歩手前に留まる」という評価を示しており、この学生作品の中にすでに後の濱口の方法論の種が宿っていると読み取っている※4

よくある質問

タイトル『何食わぬ顔』にはどんな意味がありますか?

「何食わぬ顔」とは、何事もなかったかのように平然としている様子を指す日本語の慣用表現だ。主人公の野村が亡兄の遺作映画の撮影を引き受けながらも煮え切らない態度をとり続け、周囲を戸惑わせる様子は、まさに「何食わぬ顔」そのもの。また映画内映画という構造によって、どちらの「顔」が本物なのかが曖昧になっていくこと自体も、タイトルに込められた問いかけといえる。

原作はありますか?

原作小説・原作漫画などの原典は存在しない。濱口竜介によるオリジナル脚本であり、東京大学映画研究会での活動の中から生まれた完全オリジナル作品だ(出典:シネマNAVI)。

濱口竜介監督の他の代表作は?

東京藝術大学大学院の修了作品『PASSION』(2008)でキャリアをスタートさせ、『ハッピーアワー』(2015)でロカルノ国際映画祭などで主要賞を受賞、商業デビュー作『寝ても覚めても』(2018)がカンヌ国際映画祭コンペティションに出品された。その後『偶然と想像』(2021)がベルリン国際映画祭で銀熊賞(審査員グランプリ)を、『ドライブ・マイ・カー』(2021)がカンヌ国際映画祭脚本賞とアカデミー賞国際長編映画賞を受賞している※8

本作と後の濱口作品にはどんな共通点がありますか?

制作プロセスと完成作品を二部構成で対置する構造は、本作から『親密さ』(2012)、さらに『ドライブ・マイ・カー』へと一貫して受け継がれている。また演技経験のない仲間たちと作り上げた本作での「言えないセリフは書かない」という制約が、後の演技・リハーサル方法論の原点となっている※1。演技と素の境界を溶かすことで人間のリアルを捉えようとするアプローチは、濱口の全作品を貫くテーマだ。

ジョン・カサヴェテスの影響はどこに見て取れますか?

濱口竜介はカサヴェテスを深く敬愛しており、東京大学の卒業論文のテーマも「ジョン・カサヴェテスの時間と空間」だった。2000年に特集上映で『ハズバンズ』を観たことが映画制作への本格的な契機になったと本人が語っており、『何食わぬ顔』はその直接的な影響下で生まれた作品だといえる※5。男たちの死と親密な戯れから物語が動き出す構造は、『ハズバンズ』との明確な呼応関係を持っている※9

こんな人に

・濱口竜介の『ドライブ・マイ・カー』や『偶然と想像』が好きで、その原点を掘り下げたい人
・ジョン・カサヴェテスや、インディペンデント映画のざらついたリアリティに惹かれる人
・「映画の中の映画」という入れ子構造が好きで、観た後に頭の中をゆっくり整理したい人
・演技と素の境界が溶けていくような映像体験に興味がある人
・大作映画に慣れていて「小さな映画」を試してみたい人でも、記憶がほどけていく感覚だけで十分楽しめる

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