視聴方法
Prime Video、U-NEXT、DMM TV、Leminoでの取り扱いが確認されている(2026年6月時点)。見放題・レンタルの区分や最新状況は各サービスで要確認。
あらすじ
スイス人映画監督ダニエル・シュミットは、芸術への造詣が深くオペラ演出家としても知られていた。シュミットは日本の著名な文化人との深い親交の中で、歌舞伎の女形という特異な存在を知り、1990年代の日本で女形のスター・坂東玉三郎に魅せられていく。
坂東玉三郎が演じる3つの演目「大蛇」「積恋雪関扉」「鷺娘」の舞台映像のほか、杉村春子が女形や玉三郎について語る場面、現代舞踏の第一人者・大野一雄との対比、地唄舞の武原はんや芸者の蔦清小松朝じらの映像も収められている。また、玉三郎演じる年増の芸者を二人の若者が奪い合うフィクションパートも含み、貴重な事実の記録であると同時にファンタジックな現代の童話ともいえる、夢と現実が混然となった幻想的な作品に仕上がっている。外国人監督の視点が、日本人には見えにくかった日本の独自性と神秘を浮かび上がらせる。
見どころ
「書かれた顔」が意味するもの——白塗りという哲学
歌舞伎の化粧は、まず顔全体を白粉で均一に塗りつぶすことから始まる。顔を一度「無」にしてから役を描く、この工程が作品の核心だ。シュミットのカメラはその過程を説明なしに淡々と捉え、観客はいつの間にかその儀式的な時間に引き込まれていく。
ここで効いてくるのが、日本人の顔の造形だ。彫りが浅く、のっぺりとした輪郭。この「フラットさ」があるからこそ、白粉が均一にベースを覆い、そこに描かれた線が時代や役柄を超えて成立する。仮に欧米人のような陰影の強い顔立ちを真っ白にしたとしても、元の凹凸が透けて見えてしまい、別人の顔として書き直すことはできない。「日本人の顔だから歌舞伎が成立する」——この一点を、説明ではなく映像で観客に気づかせる手腕にうなる。
女形という逆説——男だからこそ「女以上の女」になれる
坂東玉三郎が語る女形論は、この映画のもっとも知的な瞬間のひとつだ。あくまで自分は男性であり、どこまでいっても男性から見た女性でしかない。しかしだからこそ、女性の仕草を細部まで注意深く観察できる。「理想」や「憧れ」が介在することで、女性より女性らしさが生まれる——この逆説は、ジェンダーを超えた表現の本質を突いている。
大野一雄の舞踏が差し込まれる理由
ドキュメンタリーの合間に挟まれる舞踏家・大野一雄の映像は、最初は唐突にも映る。しかしその女装した身体が感情を体全体で表現する姿は、坂東玉三郎の女形と呼応し合い、作品全体のリズムを司る。虚構パートの「フィクション性」をあえて露わにしつつ、日本の伝統芸能に宿るエネルギーを強烈に増幅させている。
制作背景
シュミットと日本——10年越しの企画
未知の映画作家が次々と日本へ紹介され、ミニシアター・ブームが巻き起こった1980年代。蓮實重彦ら日本の映画人によって”発見”されたダニエル・シュミットは、退廃的な映像美で世界中に熱狂的なファンを生んだ。
シュミットが日本を知るようになったのは、彼の映画が日本で高く評価され、新作が完成するたびに繰り返し日本へ招待されたからだ。そのたびに彼は日本のイメージを一杯に詰め込んだスーツケースを持ち帰り、本作でそのスーツケースを開けた。そうした長年にわたる交流が、この映画の土台をなしている。
『ラ・パロマ』(1974年)や『ヘカテ』(1982年)が大のお気に入りだった坂東玉三郎とシュミットは、シュミット初来日の1982年以来の友人。シュミットが玉三郎の楽屋を訪ねたり、1987年の『デ・ジャ・ヴュ』では白塗りの化粧を落とす女優のシーンまで盛り込んでいた。一緒に映画を作ることは、二人にとって10年越しの企画だったという。
この映画の製作は、日本側のプロデューサーがスイス人監督に日本での映画制作を依頼したことがきっかけだった。製作はユーロスペースとT&Cフィルムが担当し、プロデューサーは堀越謙三が務めた。
さらに、ユーロスペースの堀越謙三による著書『インディペンデントの栄光 ユーロスペースから世界へ』によると、本作は喉頭ガンによって鬱病のように塞ぎ込んでしまったダニエル・シュミットに元気を出してもらうための企画から始まったという。この時期、シュミットは長年プロダクションデザインを務めた公私のパートナー、ラウール・ヒメネスをエイズで亡くしてもいた。
撮影——九州・四国から東京まで
シュミットは1994年秋に来日し、九州・四国の島々、大阪、そして東京港で撮影を行い、日本の伝統的な演劇形式の重要な担い手たちに出会った。本作は「ドキュメンタリー・フィクション」あるいは「フィクショナル・ドキュメンタリー」とも称されるユニークな作品で、外部者が日本の本質に真に踏み込むことは不可能であるという前提に立ち、シュミットは仮面や記号の「反響室」を通じて日本へ接近しようとした。
シュミット自身は本作について「顔の変容がまた記号のずれをも意味する記号の陳列室の中で成立している」と語り、異世界のいくつかの記号を示そうとしたが、「それらを本当に理解することはついにできなかった」と述べている。
撮影を担当したのはレナート・ベルタ。ゴダール、ロメール、オリヴェイラらの作品も手がけてきた名手で、盟友シュミットと生み出した夢幻の映像美は今なお多くの作家に刺激を与え続けている。
また、フィクションパート「黄昏芸者情話」の助監督を、青山真治(『EUREKA ユリイカ』)が務めた。※1
シュミット自身は本作のパンフレットでこう明言している。「この映画はドキュメンタリーではありません。フィクションです。わたしは、黄昏についての物語、すなわち映画についての映画を作り上げようとしているのです」※1
映画祭歴・受賞・4Kレストア版
本作は1995年のロカルノ・トロント・ジュネーヴ各国際映画祭で上映されたほか、1996年にはベルリン・ロッテルダム・バンクーバー・シドニー・サンフランシスコ各国際映画祭にも招待された。また撮影のレナート・ベルタは1995年度JSC賞(日本映画撮影監督協会賞)を受賞した。※2
27年の時を経て4Kレストア版が2022年の同ロカルノ映画祭でワールドプレミア上映された。日本では同年10月開催の「現代アートハウス入門 ドキュメンタリーの誘惑」で4Kレストア版が初上映され、2023年3月11日よりユーロスペースほか全国順次公開された。※3
撮影後ほどなくして世を去った杉村春子、武原はん、そして大野一雄らの最晩年の姿は、今や貴重な記録として評価されている。
感想
見終えた後、しばらく動けなかった。
「外国人は日本人より日本を理解している」という感覚、ヴィム・ヴェンダース(『PERFECT DAYS』の監督)の作品でも抱いたものだが、この映画ではそれが理論としてだけでなく、映像そのものとして叩き込まれてくる。スイス人が撮った日本。だからこそ見えた日本。
劇中で坂東玉三郎が客観性について語る場面がある。この映画自体が、その言葉を体現していた。内側にいる人間には当たり前すぎて見えない美しさ。外側にいるからこそ生まれる「理想」と「憧れ」。日本人が撮っていたら、こうはならなかったと断言できる。
女形の話が特に刺さった。「男だからこそ女以上の女になれる」という坂東玉三郎の言葉は、表現論として強烈だ。自分は男性であり、どこまでいっても男から見た女でしかない。だからこそ、女性の仕草を細部まで観察し、「理想」と「憧れ」が介在することで、女性以上の女らしさが生まれる——。
この逆説を聞いた瞬間、はっきりと気づいた。これは女形だけの話ではなく、シュミットがこの映画でやっていることそのものだと。「外国人だからこそ日本以上の日本が撮れる」——構造はまったく同じだ。当事者は近すぎて見えない。むしろ「持っていない者」だからこそ、強烈な観察眼と憧れを発動できる。それが「理想」として結晶するとき、不思議なことに「偽り」の感触はゼロで、むしろ「これが本当の姿だ」と思わされてしまう。男が描く女と、外国人が描く日本。両者の手つきが、映画の中で静かに重なっていく。
そしてもうひとつ、忘れがたいのが大野一雄の舞踏だ。本筋の合間に唐突に挟み込まれるこの映像は、最初は正直、戸惑った。なぜ歌舞伎のドキュメンタリーに前衛舞踏家が出てくるのか、と。だが、女装した老体が苦悩と歓びを全身で噴出させていく姿を観るうちに、すべてが繋がっていく。坂東玉三郎が「型」として磨き上げる女性性と、大野一雄が「自我」として剥き出しに踊る女性性。対極にあるはずの二人が、同じ「無から無限を生み出す」というエネルギーで呼応していた。説明はひとつもないが、シュミットがなぜ大野一雄を選んで挿入したかが、映像だけで腑に落ちる。淡々としたドキュメンタリーになりかねない流れに、舞踏の身体が異物として割って入ることでリズムが生まれ、同時にフィクションパートの「作り物」性も逆照射される。この絶妙なバランスが、本作を「日本論」ではなく一本の映画として成立させていると感じた。
構成のリズムも見事だった。「鷺娘」の舞台に集中させてから、突然、車内のプライベートな坂東玉三郎が映し出される。その切り替えの瞬間、「演じている」と「演じていない」の境界がぐらりと揺らぐ。何が本当の顔なのか。「書かれた顔」という考察のタイトルが、じわじわと広がる問いになっていく。
撮影監督レナート・ベルタの仕事も忘れてはいけない。ゴダールやロメール作品も手がけた彼の視点が、シュミットの「外側からの眼」にさらなる奥行きを与えていた。のちに李相日監督(在日韓国人二世という背景を持つ映画作家)の『国宝』でも、撮影監督にソフィアン・エル・ファニというフランス人を起用していると知ったとき、この映画と同じ選択だと確信した。客観性は意図的に作り出せる。
日本人として、少し恥ずかしくもあり、誇らしくもある、そんな複雑な余韻が残った。
他の人の見方
4Kレストア版の公開に寄せて、ダンサーや舞踊家からも本作への賛辞が並んでいる。
舞踏家・俳優の麿赤兒(大駱駝艦主宰)は、シュミット監督が「日本のレジェンドたちの妖・怪・美を色鮮やかに織り上げ」たと評している。※3
文筆家・選曲家の青野賢一は、女形を演じることについて坂東玉三郎が語り、役のために顔を塗る姿をカメラが捉えるとき、「フィクションの世界が現実を侵食する」と表現し、大野一雄の舞踏に強く心を打たれたと述べている。※3
ダンサー・振付家の川口隆夫は、大野一雄の踊りがシュミットの映像表現の中で「ほわっと浮きあがり、まるで水面を滑るように軽やかで優雅」と評価している。※3
よくある質問
タイトル『書かれた顔』にはどんな意味がありますか?
歌舞伎の女形は、まず白粉で顔全体を「無」に塗りつぶしてから、役の表情を筆で「書き込む」。このプロセスをそのまま映画の核心として捉えたのがこのタイトルだ。シュミット自身は本作について「顔の変容がまた記号のずれをも意味する記号の陳列室の中で成立している」と語っており、顔を書き換えるという行為が、単なる化粧ではなく記号の転換であることを示している。原題はドイツ語で Das geschriebene Gesicht、英題は The Written Face。
本作はドキュメンタリーですか、それともフィクションですか?
本作は「ドキュメンタリー・フィクション」あるいは「フィクショナル・ドキュメンタリー」とも称されるユニークな作品だ。シュミット自身は公開時パンフレットで「これはドキュメンタリーではありません。フィクションです」と明言している。劇中では現実、舞台、そして映画作家の夢と幻想が繰り返し交錯するという、フィーチャーとドキュメンタリーの絶妙な組み合わせの形式をとっている。
ダニエル・シュミット監督の他の代表作は?
『ラ・パロマ』など退廃的な映像美で知られるスイスの映画監督で、フィルモグラフィーは多岐にわたる。主な作品に、ドキュメンタリー『トスカのキス』(1984年)、劇映画『ヘカテ』(1982年)、『季節のはざまで』(1992年)、そして最後の長編劇映画となった『ベレジーナ』(1999年)などがある。1999年にはロカルノ国際映画祭で名誉豹賞(生涯功労賞に相当)を受賞している。
坂東玉三郎はなぜ本作の主演に選ばれたのですか?
坂東玉三郎とシュミットは、シュミット初来日の1982年以来の友人で、一緒に映画を作ることは二人にとって10年越しの企画だった。本作は当時の歌舞伎界で最も著名な俳優のひとりであり、5歳から舞台に立ち生涯を女形に捧げてきた坂東玉三郎への、シュミットの個人的な魅了が出発点になっている。
本作の映画祭や受賞歴を教えてください。
本作は1995年にロカルノ・トロント・ジュネーヴ各国際映画祭で上映され、翌1996年にもベルリン・ロッテルダム・バンクーバー・シドニー・サンフランシスコなど世界各地の映画祭に招待された。撮影のレナート・ベルタは1995年度JSC賞(日本映画撮影監督協会賞)を受賞している。※24Kレストア版は2022年のロカルノ映画祭でワールドプレミア上映され、日本では2023年3月に正規劇場公開された。
こんな人に
・歌舞伎や日本の伝統芸能に興味があるが、なかなか敷居が高いと感じている人
・「外から見た日本」という視点に引っかかりを感じる人
・ヴィム・ヴェンダース『PERFECT DAYS』を観て同じような感覚を抱いた人
・ドキュメンタリーとフィクションの境界が溶けるような映画体験が好きな人
・ドキュメンタリー映画に馴染みがなくても、美しい舞台映像と独特のリズムで引き込まれる作品なので、映像の力を純粋に楽しみたい人にもおすすめ
関連商品
💿 ダニエル・シュミット監督作品(同監督・近年Blu-ray化)
💿 シュミットの代表作(盟友レナート・ベルタ撮影)
💿 「鷺娘」を独立収録(本作のクライマックス演目)



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