歌手になる夢を抱きながら統合失調症に苦しむ一人の女性の生きる姿を、現代社会での人の生き方という問いとともに映し出した、島田隆一監督のドキュメンタリー作品。撮影開始から完成まで10年をかけた記録は、被写体の人生にカメラがどこまで介入できるかという、答えのない問いを静かに刻みつける。
視聴方法
Prime Video・U-NEXT・FODでの取扱いが確認されています(2026年6月時点)。見放題・レンタルの区分や最新の配信状況は各サービスで確認してください。
あらすじ
2001年9月、日本映画学校の生徒だった島田隆一は、若者たちが感じている生きづらさをとらえた作品を撮ろうと夜の渋谷に繰り出す。そんな中、ヒッチハイクで佐賀県から渋谷へとたどり着き、ストリートミュージシャンとして活動する吉村妃里と出会う。路上でアカペラを披露するエネルギッシュな彼女の姿に引き寄せられた島田とスタッフは、約半年間・300時間にわたる撮影を続ける。しかし吉村は突然、統合失調症を発症し緊急入院。強制帰郷という結果になり、映画の制作は中断する。その後、監督を含めたスタッフは映画学校を卒業し、撮影したテープは放置されたまま、それぞれの人生を歩み始めた。それから9年後の2011年、映画監督になると意気揚々としていた10年前の自分に決着をつけるため、島田は再び吉村に会うことを決める。夢を抱きながら病と向き合い続ける一人の女性の姿を追ったドキュメンタリー。
見どころ
10年という歳月がフィルムに刻んだ変化と、撮る側・撮られる側の関係が問い直される構造の二点が、この映画を日本のドキュメンタリーの中でも異質な存在にしている。
約10年分の時間が刻む、変わり果てた姿
半年間の密着映像と9年の空白を経た再会の記録が並置されることで、時間の残酷さが静かに浮かび上がる。かつてのエネルギーに満ちた路上パフォーマーと現在の吉村妃里とのギャップは、言葉にならない重さをもって迫ってくる。
統合失調症という病を「撮る」ということ
本作は統合失調症の発症プロセスを記録した、日本ドキュメンタリー映画としては異例の作品だ。病そのものの描写よりも、彼女を取り巻く人間関係や社会との摩擦が丁寧に積み上げられる。病名を知る前から「何かがおかしい」と感じさせる前半の構成が、後半の展開に深い影を落とす。
カメラの「加害性」を問う自己批判的な構造
監督自身が「自分のせいで彼女が統合失調症になったかもしれない」と自問する姿勢が、作品全体に通奏低音として流れている。ドキュメンタリーとは誰のために撮るものなのか。被写体の人生にカメラはどこまで介入していいのか。答えの出ない問いが、フィルムに焼きつけられている。
制作背景
本作は、島田隆一監督が日本映画学校に通っていた当時、実習のテーマを模索中に、渋谷でストリートミュージシャンの吉村妃里と出会ったことを発端とするドキュメンタリーだ。1981年生まれの島田は、ドキュメンタリーや教育映画の制作・演出・撮影・編集を手がけてきた映像作家であり、日本映画学校(現・日本映画大学)卒業後は、ドキュメンタリー映画『1000年の山古志』(橋本信一監督、2009年)に助監督として参加している。
『ドコニモイケナイ』の撮影は、吉村妃里と出会った2001年から約半年間・300時間にわたって続けられた。渋谷篇の撮影は朝妻雅裕、島田隆一、城阪雄一郎の三名が担当し、その後の佐賀篇の撮影は山内大堂が手がけた。編集は辻井潔が担い、構成には大澤一生、島田隆一、辻井潔が参加している。音楽はAMADORIとモリヒデオミが担当し、サウンドデザインを田邊茂男が務めた。
吉村が統合失調症を発症して帰郷した後、監督含め制作スタッフは映画学校を卒業し、記録されたテープは放置されたまま、それぞれの人生を歩み始めた。それから9年後の2011年、島田監督は「10年前の自分との決着をつけるため」に再び彼女のもとを訪れることを決断する。
2012年11月24日に劇場公開(86分)。同作品で島田監督は2012年度・第53回日本映画監督協会新人賞を受賞した。また2013年10月23日には第26回東京国際映画祭で特別上映され、島田監督は若手監督同士でドキュメンタリー映画の未来を語るシンポジウムにも登壇している。東京国際映画祭の場で、島田監督は「若者たちの生きづらさを描きたいと思っていた。10年というタイムラグがある中、彼女の苦しみが観客に伝わるのか心配だった。それがこういう広がりをもち、作品が僕の思惑を超えてくれた」としみじみ語った。※1
本作がデビュー作となった島田監督は、その後も2020年に福島県双葉郡広野町を舞台としたドキュメンタリー映画『春を告げる町』を公開。同作は山形国際ドキュメンタリー映画祭2019のともにあるCinema with US部門、第11回DMZ国際ドキュメンタリー映画祭アジアコンペティション部門に正式出品されるなど、日本のドキュメンタリー映画の新世代として活動を続けている。現在は日本映画大学准教授を務めている※2。
感想
正直に言う。見終わった後、しばらく立ち直れなかった。
吉村妃里という一人の女性の前半の姿を見ながら、すでに「何かがおかしい」と感じていた。路上で歌う彼女の歌詞は、誰かを励ますようでいて、どこか自分自身に向かって叫んでいるように見えた。「てらこや」という活動を通じて友人をたくさん作ろうとする姿も、仲間に囲まれているようで、その関係の薄さが透けて見えた。とにかく寂しいのだ、と思った。
芸能事務所にスカウトされたことで変化が訪れる。社会に帰属しようとした瞬間、彼女はむしろ自分がこの世界に馴染めない存在であることを突きつけられてしまったのではないか——そう感じた。その後の展開は、見ていてとても辛かった。
この作品が突き刺さったのは、彼女の病だけでなく、ドキュメンタリーという形式そのものへの問いがあったからだ。ドキュメンタリーは事実を写すと言われながら、実は撮る側の主体性が色濃く出てしまう——そのジレンマを、本作ほど切実に体現した作品はそうない。監督の意図や感情が被写体に影響を与えてしまう。それは避けられないことかもしれない。けれど本作の場合、その影響の重さが尋常ではなかった。
「監督が訪れなかったら、この風景は生まれなかった」。最後の路上ライブの場面でそう感じてしまった自分がいる。それは美しい光景のようで、どこかさらけ者にされているような、複雑な後味だった。点数をつけることを迷ったのも正直なところだ。
心が辛い時期には、見ない方がいい。でも、この問いから目を逸らしてはいけないとも思う。
他の人の見方
映画鑑賞記録サービス上の平均スコアは3.8※3。若者が東京で直面する困難さへの共感、2000年代の渋谷の映像が持つ時代の空気への言及、そして「バスを見送るお母さん」の場面に言及するレビューが多く並ぶ。映画の倫理そのものを問う作品だからこそ、見た者をすぐには手放さない映画として評価されている。
こんな人に
・ドキュメンタリー映画の「倫理」について考えたことがある人
・統合失調症という病について、映像を通じて理解を深めたい人
・「撮る側」と「撮られる側」の関係に興味がある人
・是枝裕和作品や原一男(『ゆきゆきて、神軍』で知られるドキュメンタリーの鬼才)など、日本のドキュメンタリー映画が好きな人
・ドキュメンタリー映画を初めて見る人にとっても、「映画とは何を映すものか」という根本的な問いを体感できる一作
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