FIND US
← BACK / REVIEW
REVIEW

『急に具合が悪くなる』考察・感想|濱口竜介は奇跡を必然にした(ネタバレなし)

映画『急に具合が悪くなる』の場面写真

監督・脚本 濱口竜介

共同脚本 ルディムナ玲亜

原作 宮野真生子・磯野真穂『急に具合が悪くなる』(晶文社・2019)

主演 ヴィルジニー・エフィラ、岡本多緒

共演 長塚京三、黒崎煌代

製作年 2026年

上映時間 196分

製作国 フランス・日本・ドイツ・ベルギー

英題 *All of a Sudden* / 仏題: *Soudain*

配給 ビターズ・エンド

受賞 第79回カンヌ国際映画祭 コンペティション部門 女優賞ダブル受賞(岡本多緒は日本人初)


※本記事にはアフィリエイトリンクを含みます。


目次

視聴方法

本作の日本公開日は2026年6月19日(金)で、全国ロードショーが行われた。現時点ではVOD配信は始まっておらず、劇場での鑑賞のみ可能です(2026年7月時点)。なお、フランスでの劇場公開は2026年8月12日を予定している。

あらすじ

パリ郊外の介護施設「自由の庭」で施設長を務めるマリー=ルー・フォンテーヌは、入居者を人間らしくケアすることを理想としながらも、人手不足やスタッフの無理解に悩まされていた。

そんな中、日本人の舞台演出家・森崎真理と出会ったマリー=ルーは、がん闘病中の彼女が描く演劇に勇気をもらう。同じ名前の響きを持つ偶然に導かれて交流を始める真理とマリー=ルーだったが、あるとき真理は急に具合が悪くなる。真理の病の進行とともに2人の関係は深まり、互いの魂を通わせ合うようになっていく。

「ベネデッタ」のビルジニー・エフィラがマリー=ルーを、「ウルヴァリン:SAMURAI」などハリウッド映画にも出演する世界的ファッションモデルのTAOこと岡本多緒が真理を演じ、真理が演出する舞台の出演俳優・清宮吾朗役で「敵」の名優・長塚京三、吾朗の孫・窪寺智樹役で「見はらし世代」の注目若手俳優・黒崎煌代が共演する。

見どころ

濱口竜介、初の海外ロケ・フランス語作品

『ドライブ・マイ・カー』でアカデミー賞国際長編映画賞およびカンヌ国際映画祭脚本賞、『悪は存在しない』でヴェネチア国際映画祭銀獅子賞、『偶然と想像』でベルリン国際映画祭銀熊賞の受賞と、世界三大映画祭すべての主要賞を獲得してきた濱口竜介。その濱口監督が、着想から5年の月日をかけて完成させたのが本作だ。濱口竜介監督にとって初の海外ロケ作品で、フランス人の役者が多数登場し、盛んにフランス語が交わされる。

撮影はギヨーム・ブラック作品を数多く手がけているアラン・ギシャウアが担当し、パリの街並み、昼と夜のあわいを、生涯忘れられない景色としてスクリーンに収めた。またフランスでの撮影はほぼすべての部門を海外スタッフが担当し、最後の1週間の京都ロケには監督の旧知のスタッフを含む日本人クルーが6人の来日スタッフを支えて、本作は完成した。

企画の発端については、フランスの制作会社・シネフランスからのアプローチを受け、日仏共同企画として動き出したという経緯がある。濱口監督はフランスでの映画化を決断した際、エリック・ロメールの『モード家の一夜』(1969年)を念頭に置いており、哲学的な対話だけで成立する映画の可能性をフランスという土地に見出した。

カンヌ女優賞ダブル受賞、岡本多緒は日本人初

2026年・第79回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、ビルジニー・エフィラと岡本多緒がそろって女優賞を受賞。岡本は日本人で初のカンヌ国際映画祭女優賞受賞を果たした。濱口監督にとってカンヌ・コンペは3度目の選出となる。

英国の映画業界誌「Screen Daily」の星取表では映画祭に参加した記者の評価が掲載されており、最高点の4つ星を付けるメディアも多く、平均点3.1を記録。全体では3番目に高い点数となった。また本作は、環境に配慮した映画制作を評価する「Ecoprod Cannes 2026」も受賞している。

岡本多緒(TAO)については、14歳で日本でモデルデビューし、2006年に渡仏してパリコレに参加。その後トップモデルとして世界的に活躍し、2013年の米映画『ウルヴァリン:SAMURAI』でスクリーンデビュー。ドラマ『ハンニバル』や『ウエストワールド』など国内外の作品に出演し、2023年より本名の「岡本多緒」として活動をスタートした。

196分という尺、そして「触れること」

濱口監督は本作の上映時間について「これが一番短いバージョンで、もともと脚本は4時間近くあった」と語る。「ふたりの関係性を単に理解するだけでなく、信じ、共にいると感じるためにベストの尺」だと言う※1。台詞を介した対話だけでなく、触れること・身体を預け合うこと——言葉によって縮減されない領域が、3時間16分かけて積み上がっていく。

そんな国際的な現場でも、台本の読み合わせを何度も繰り返す「濱口メソッド」は健在で、それが出演者の心を一つにした。エフィラは日本語、岡本と長塚はフランス語のシーンも演じ、渾身の役作りを果たした。

制作背景

原作——20通の往復書簡

原作は、がんの転移を経験しながら生き抜く哲学者・宮野真生子と、臨床現場の調査を積み重ねた人類学者・磯野真穂が20年の学問キャリアと互いの人生をかけて交わした20通の往復書簡『急に具合が悪くなる』(晶文社)。死と生・別れと出会い・選択と偶然をめぐって全力で言葉を交わした記録で、宮野は刊行後に逝去している※2

宮野真生子は福岡大学の准教授で、日本哲学史を専攻していた哲学者。先行著作に『出逢いのあわい——九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(2014)があり、九鬼周造『偶然性の問題』に連なる「偶然性」の哲学を研究領域にしていた。書簡集の章のひとつには「周造さん」というタイトルもある※2

企画から映画化へ——着想から5年

濱口は「約4年前にオフィス・シロウズの松田広子プロデューサーからこの本を映画原作として提案されてから、ずいぶん長い時間を経た」と語っている。その後、シネフランスというフランスの制作会社から連絡を受け、日仏の共同企画として動かすことでようやく映画化の道筋が見えてきた。原作のふたり——フランス語圏の介護哲学とアジアの医療人類学——という構造を、フランス人施設長と日本人演出家の関係に置き換えることで、書簡の精神をそのまま映画に宿らせた。

また、濱口監督はかねてフランス発のケアの哲学・技法「ユマニチュード」に強い関心を持っており、映画では主人公マリー=ルーが介護施設でユマニチュードを実践しようと試行錯誤する様子が描かれる。さらに松島健『プシコ ナウティカ──イタリア精神医療の人類学』(世界思想社、2014年)を参考にしたとされる描写も組み込まれている。

濱口監督はこの原作について、「ふたりの人間がここまで早く深くなれるもの。希望として受け取られるような何かが自作に入ってきたとしたら、それは原作の力です」「ひとつの奇跡のような原作がある。ただ、そこには死という絶望的な事態とまったく同時に進行している」と語っている※1

スタッフ陣

スタッフは撮影アラン・ギシャウア、美術ミラ・プレリ、衣装カロリーヌ・スピエット、編集山崎梓、音楽サミュエル・アンドレイエフ、音響ピエール・メルタンス/ポール・エイマンス/トマ・ゴデール、キャスティングはコラリー・アメデオが担当した。また劇中のワークショップ・演劇指導は砂連尾理がパリまで赴いて担当した。

音楽のサミュエル・アンドレイエフは石橋英子の推薦により参加したカナダ系フランス人の音楽家・詩人で、繊細な映画世界に厚みを与えている。

感想

見終えた後の高揚感、そして絶望

素晴らしい映画。新しい何かを見ている感覚があった。

見終えた後の高揚感、多幸感。序盤からすでに感動で涙腺が緩み、そのままずっと素敵なシーンが続くため、涙腺が止まることがなく、最後まで泣いていた。おかげで目と頭が痛くなり、具合が悪くなった。

こんなにも希望を与えてくれる映画だったのに、逆説的に絶望を感じることとなった。それは共に鑑賞していたお客さんのせいである。それは後述する。

そして冷静にこの映画と向き合った時、「やはり良かった」という感覚よりも、むしろ「とはいえ」や「でも」といった疑念が生まれてしまうものだった。自分の心に素直になり、引っかかったところはしっかりと指摘しておきたい。

理想的な面だけで終わっていた、ということ

結局は理想的な面だけで終わっていたように思う。それは原作者である哲学者・宮野真生子さんと、人類学者・磯野真穂さんへの配慮、尊重、リスペクトからであるし、世界の美しさを表現することがこの作品のゴールであろう。映画の中で理想を否定してもしょうがないことではある。

今までは相互理解の難しさ、理解できなさを描いた上で、最後にわずかな輝きを見せる作品が多かったと思う。つまり、人と人は理解することは難しいけれど、それでも向かい合うことで何かが生まれるということを描いてきたと思う。

それが今作の場合、その見えない壁を決定的に超えたように思う。内と外の話が出てきたが、内と外は混じり合うことができる、つまり人と人は理解し合えると断言してしまった作品のように思う。

物語——マリーと真理の出会い

介護施設「自由の庭」の施設長であるマリー=ルー・フォンテーヌは、自分の理想の介護施設を目指すべく、ユマニチュードを取り入れようとしている。しかし、その研修を行おうとすると施設に負担がかかるのと、お金の問題が発生する。このお金と労働の問題が今作の一つのテーマでもある。日々苦悩する中、彼女はステージ4のがんを持つ演出家、森崎真理と出会う。彼女との応答で自分が今何と向き合っているのかが整理されていく。

固定カメラで淡々と映し出される介護施設の状況。そこで繰り広げられる施設の方針をめぐった対立。自分の理想と現実とのギャップで苦しむマリー。トラム(路面電車)の中で堪えきれず涙を流すマリーが外を見ると、並行して走る青年(窪寺智樹)の姿が目に映る。

まずこのシーンでグッと胸を掴まれた。何かと決定的に出会った瞬間。思わず涙腺が緩む。その後、森崎真理と清宮吾朗と出会い、一度別れたのちに、講演で再び再会する。そこで繰り広げられる舞台がまた不思議なもので、健康な人間と異常な人間についての話、そして生きるとは何なのかという問い。その舞台に乱入してくる自閉症の智樹。

偶発的なものを含んだその演劇を終えて、より彼女のことが気になり始めるマリー。そこからは優しく素敵なシーンの数々。心地よい言葉の羅列や柔らかい声と表情。パリの街や夜の河辺。その中に溶け込むような二人とその空間。ここで一度別れると思いきやそのまま施設のシーンへ。

今まで互いに日本語で会話をしていたのに、施設に移動すると、真理は日本語、マリーはフランス語で会話をし始める。つまり気を使わなくなっている。それぐらい親密になっている。この施設でやりたいこと、やっていることを実践で体験させる姿、その中で語られるこの世界の構造。理想と現実、資本主義と労働。結局はお金にたどり着いてしまう結論。この構造の中で戦う先について。

次の日、真理は急に具合が悪くなる。がんは着実に進行している。その現実と共に向き合い始めるマリー。たった数時間の会話の中でグッと近づく二人の関係。日本にまでついていくマリーだが、そこに違和感を全く覚えないのは、濃密な空間が短い間で描かれ、魂を通わせていく姿が丁寧に映し出されているから。

ここからさらに印象的な対話が始まる。それはマッサージから始まり、足のツボを押す流れにいたる。つまり、触れることが積極的に描かれ始める。この交流が発展し、施設でのセラピーにも使われるわけだが、これが最終的に奇跡的なシーンへと繋がっていく。

触れること、内と外、奇跡を必然にする監督

体に触れること、これは『不気味なものの肌に触れる』で深く描かれていた。内と外に関しては露骨に『悪は存在しない』で描かれていた。他の映画でも描かれている一貫したテーマではある。

今までは対立、互いに理解し合うことの難しさを描いていたのだが、いよいよもう一歩二歩進んだ作品だと感じた。つまり理解し合うことは可能なのではないかと。内と外が溶け合う姿を視覚的にも表現してしまっていた。

不可能を可能にする。それは偶然起きることであり奇跡のようなものである。それは壮大なものではなく、何気ない日常の些細な出来事から突然目が芽生えてくる。それを見事に描き切った作品。

濱口竜介監督は、奇跡を描くのではなく、奇跡が起きる瞬間を捉える監督である。この集大成を見せつけられた。それはラストに一気にという感じではなく、もはや全てのシーンが奇跡的なシーンになっており、終始感動で涙を流しながら見ることになった。

話そうと思えば話し続けられるほど、全てのショット、シーン、シークエンスが素晴らしかったのだが、いくつか言及しておこうと思う。

映画の中で舞台「近づいてみれば、誰もまともな者はいない」が描かれるが、そこに智樹が乱入してくる。そして、お客さんは各々のタイミングで楽器を演奏する。それら全てが演出のようなものになっているのだが、これこそまさに「偶然性」が宿っている。この辺り、ジョン・ケージの『4分33秒』を想起させる。ジョン・ケージは禅から影響を受けた人で、チャンス・オペレーションという手法を探求した人でもある。『4分33秒』では演奏者がピアノの前でじっとしているだけなのだが、その無音の中に微かに聴こえる服が擦れる音、小さな声や咳——そういった偶発的なものを作品として昇華したものである。

偶然というものは日本の文化とも深く共鳴する概念であり、そして原作者・宮野真生子さんがまさに偶然性を研究していた方だった。そのきっかけになったのが九鬼周造の『偶然性の問題』である。実際、宮野真生子の先行著作には『出逢いのあわい——九鬼周造における存在論理学と邂逅の倫理』(2014)があり、九鬼周造研究は彼女の学問的な核そのものだった。書簡集『急に具合が悪くなる』の章のひとつには「周造さん」というタイトルさえある。偶然性の哲学が、書簡から映画へとそのまま受け継がれている。

濱口竜介監督インタビューでもこう語られている——「起こりそうにないことが積み重なってできている映画。これは、ありえないことがありえた、そういう映画です」と。

濱口竜介はこの「偶然性」というテーマや仕組みについて、深く考えてきた方だと思われる。それは「奇跡」とも言い換えられるものだが、なぜその「奇跡」を捉えることができるのか。

それは入念な準備である。なぜ流れ星に願いを込めると夢が叶うのか。それは常に心の中に強い思いがある人が、わずかな時間で流れ消えていく流れ星に対して、瞬時に願いを込められるほど、頭の中にその思いがあるからだ。そういう人はいざチャンスがやってきた時、それを掴む準備ができている。

つまり、濱口竜介監督は入念な準備をした上で、そのチャンスを掴める状態を作っている。だからこそ、あらゆるシーンが奇跡のような映像になっている。今作の場合、それを完全にものにし、捉えまくった作品だと感じた。最初から最後まで奇跡のような輝きを放つシーンだらけで、もはや感情が昂らないシーンがないほど素晴らしい。

奇跡を必然にする監督。映画の内容も不可能を可能にするというものであった。つまり濱口監督がずっと目指していたものが完成形になった作品である。少なからず自分はこの映画を見て強くそう感じた。

労働、介護、そして現実の壁

労働の話もしておきたい。自分は土日も働いている。つまりこの映画で言われていることがずばり響いてしまう人間である。それは体調を崩してしまい、1日に働ける時間が限られているため、1週間に分散させる必要があるためだ。なので休日はない。ずっと仕事をしている。ずっと仕事をしているとまた体の調子が悪くなる。そしてうまく働けなくなる。

お金を効率よく稼げなくなり、また休日に何とか取り戻そうとする。このループから抜け出せない。治療にもお金がかかる。そのために働き体を壊す。この悪循環から抜け出せない。これは社会の構造がいけないのだと言ってくれたのは救いになると共に、じゃあどうすれば良いのかという疑問は残ったまま……。でも意識化させてくれたのはすごくありがたい。

私のおばあちゃんは認知症で、現在介護施設にいる。そこでずっと気になっていたのが、体をちゃんと動かせているのかということ。体を動かさないと急激に体は悪化する。その辺りの話がまさに出てきて、ただ施設側にはリスクでしかないということ。そしてコストもかかる。この狭間でどう理想に持っていくかということがしっかりと描かれていた。

ただし、正直なところ、この辺り、解決はできていなかったのではないだろうか。例えばラストあたりに、男性が倒れる。あそこから奇跡的なシーンが生まれていくわけだが、実際にはあのまま倒れて骨を骨折、さらに体を動かすのが困難になり、急激に体が弱りこの世を去ってしまう可能性は確実に残されている。

理想を徹底的に描いた映画だと思った。理想と現実の話は映画の中でも出てくるが、現実はこんなに素敵なことばかりではない。これは実感として映画を見た当日にあることで感じたことでもある。

6月20日、日比谷の舞台挨拶にて

6月20日、日比谷の舞台挨拶付きの上映会にて鑑賞。つまり、ここに来ている人は濱口竜介作品が好きで、過去作も見ているはずである。にも関わらず、隣のおじさんが他者に対する思いやりも何もない人間だったのだ。

前を通る人がいても足をどかさず、何なら軽くぶつかろうものなら攻撃するように強く足を揺さぶる。それは映画が終わっても変わらず、エンドロールの中トイレに我慢できなかった人が前を通ろうとするのだが、一切退けようとせず、さらに足を揺さぶる。邪魔だと言わんばかりに。

そんな人が頷きながらこの映画を見ていたことに強いショックを受け、帰り道は絶望していた

関連商品

📖 原作

📚 原作者・宮野真生子の関連書籍

📀 濱口竜介監督の関連作品


SHARE